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ヤングケアラーとは?|経験者の声と相談・支援

PERSONAL STORY / HELKEMA

「弥生とママは、2人で1つ」
母を守り続けた、私の子ども時代

母が大好きでした。それでも、子どもだった私には、あまりにも重い役割がありました。これは、アルコール依存症の母と暮らした私自身の体験です。

※家庭内の暴力、飲酒に伴う緊急搬送、精神科入院、死別についての記述があります。

幼いころから続いた暴力と「しつけ」

私は1989年4月21日、776グラムの早産で生まれました。母一人、子一人の家庭で育ちました。

母は「母子家庭だからとバカにされたくない!!」という思いから、しつけに厳しく、年齢を重ねるほど暴力が強くなりました。

竹製の布団たたきで体にあざができるほど叩かれ、ゴルフのパターで殴られ、髪をつかまれて家の中を引きずり回されることもありました。下着まで脱がされ、真冬の吹雪の中に長時間出されたこともあります。

私はそれを「しつけ」だと思い、「私が悪いことをしたから怒られた」と本気で信じていました。それでも、母が大好きでした。

「弥生とママはどんな時も2人で一つ」

母のその言葉は、大人になった今も心から離れません。

母の顔色を見ながら暮らした子ども時代

常に母の顔色を伺い「今は機嫌が良いのか?悪いのか?」の判断する。

母のお酒が無くなると当時はまだ子供でも酒屋で売ってくれていた為

近所の酒屋に毎日焼酎の瓶を買いに行かされる。

食事作りも毎日朝から晩まで飲み続けている為最初は出前や

お弁当などを配達で頼んでいたが、次第に生活も厳しくなり

小学1年生から食材の買い出しに行きよく「もやしと卵炒め」を

作って母と一緒に食べていた。

小学1年生の私にはそれぐらいの料理しか作る事が出来なかった。

お米を炊くのにも水と一緒にお米が流れてしまう。

お金が無いからご飯だけ炊いて鰹節と醤油で太巻きみたいに

作って食べた。最終的にはおかずもなく白米に「塩」のみを

かけて食べる生活が続いていた。

救急車を呼び、病院でようやく泣けた

4歳の女の子が倒れた母親のために電話で救急車を呼ぶ場面を描いたイラスト

4歳で救急車を呼び、入院の手続きをした経験

4歳のとき、母親のために自分で救急車を呼び、病院で入院の同意書にひらがなで署名した経験があります。

母親の入院が長引くと、自分の身体より大きなバッグに入院道具を詰め、歩いて病院まで届けていました。

その間にも母の体調は悪くなる一方で救急車要請の頻度も

ひどい時は2日に1回のペースで呼ぶようになる。

いつも飲みすぎによる意識混濁

時には呼吸停止と心停止もあり心臓マッサージを

おこないながら救急車を待つこともあった。

救急隊員も「またか」という表情で来る。

「今日はお母さんどのくらい飲んだの?」

この質問には何故だか「母を守らなくては」との想いで

「水割りを2杯程」と嘘をつく。

病院に到着すると救急外来の明かりで少し「ホッと安心する」

大人がいる事に「ホッとする」DrやNsの声掛けに「助けてくれる」と思い

今まで一人で母の面倒を見てきた緊張から少し解放され涙が溢れて

声を出して泣く。でも、母の病状も心配で私の感情は自分でも

もう分からなくなる。

入院となればその日の夜中は母の寝ているベットの隙間で一緒に寝る。

朝になれば入院に必要な物品を病院から歩いて取りに帰り

自分の身体より大きなスポーツバックにパンパンに詰め込んだ荷物を

また歩いて病院まで持って行く。

そして母と一緒に入院生活を送る。

たまに自宅に戻り1人家で過ごす日もあった。

電気もガスも止まった家で


電気とガスが止まった家で、幼い山下弥生さんと母親がろうそくの明かりを見ながら笑い合うイメージイラスト
ろうそくの明かりの中、母と笑い合った夜(イメージイラスト)

退院してその足で酒屋に向かいその場でビールを一気に流し込み

自宅に帰りまた大量に飲酒を繰り返す。

電気は止まり、ガスは止まり、真っ暗な部屋の中でろうそくを

沢山付けて母と真っ暗な部屋でろうそくの明かりだけで過ごす日もあった。

それでも母とろうそくの明かりを見ながら「きれいだね」と

笑いあった。子供ながらに何とか母を元気付けようと必死だった。

借金返済も出来ず自己破産。

生活保護受給をする事になり家にある売れそうな品物を

一つ一つ係りの人間が包み段ボールに収めていく。

それは母が店を経営していた時に使用していた

「クリスタルのグラス」の数々と食器の数々であった。

生活保護を受給する人間はお金に代わりそうな物は全て

売るなりして手放さなければならない。

中学生が背負った、服薬・介護・家計の責任


母親の服薬管理や介護、家計の責任を担い、悩みを抱える中学生時代の山下弥生さんをイメージしたイラスト
母の命と暮らしを守ろうとした、中学生時代(イメージイラスト)

古い借家に引っ越しまたアルコール依存症の母との

生活が続く。「母の命を守らなくては」「母の身体をしっかり管理しなければ」

「内服管理も1日、1日分を分けて渡す」だが薬は飲まず

「精神安定剤や眠剤」はお酒と一緒にラリる。

トイレも自分で行くことが出来ず失禁の毎日

バケツと雑巾で毎日、母の失禁の後始末。

お風呂にも入らず着替えもせず毎日酒を飲むコップも

洗わず、グラスは白く濁りそれでもそのまま飲み続ける。

そしてまた救急搬送の繰り返し。

役所の担当者は「次回お酒で搬送される事があったら保護を停止する」

そのカンファレンスに中学生の私が1人で市役所に行き

署名と捺印を求められる。

何とか飲まさないように学校にも行かず毎日、毎日

母の様子を監視する。

病院の受診日は同行し、近況の状況を主治医に伝えるのも私の役目

病院のカンファレンスに参加するのも中学生の私

家の支払いのお金の仕分けも私の仕事

延滞している家賃を大家さんの家まで持って行き

「遅れてすみません」というのも私の仕事。

その間母はまた酒を飲み酔っぱらって眠剤を飲みフラフラになって

気を失う様に眠りにつく。

母が寝ている時間だけが唯一「ホッと」出来る時間であったが

お酒の影響なのか中途覚醒が頻回にありその都度介抱する。

中学1年生、精神科病棟の二重扉

中学1年生の山下弥生さんに母親がすがりつき、精神科病棟の二重扉の前で看護師が母親を引き離そうとする場面のイメージイラスト


精神科病棟の二重扉の前で、母にすがりつかれた中学1年生の私(イメージイラスト)

そんな生活が続く中、母は精神科を受診し、入院することになりました。

母が初めて精神科に入院したのは、私が中学1年生のときでした。

病棟には、鍵のかかる二重の蛇腹の扉がありました。

「ガシャン!! ガシャン!!」

扉が閉まるその音に、私は強いショックを受けました。

「こんな所に母を入れて良いのだろうか?」

「連れて帰った方が良いのかも?」

母は私を恨み、責めました。

「人を馬鹿にして」

「こんな所に入れて」

そして母は、私の足にすがりついて訴えました。

「弥生、お願い!ママこんな所に入りたくない!」

「お願いだから連れて帰って!!」

看護師数名が母を無理やり私から引き離し、監察室へ連れていきました。

私は、まだ中学1年生でした。母を連れて帰るべきなのか、ここで治療を受けてもらうべきなのか。母の叫びと、あの扉の音を前に、簡単に答えを出せるはずもありませんでした。

どれだけ頑張っても、母のお酒は止まらなかった

どれだけ母のアルコールを止めようと頑張ってもダメ

毎日、毎日母の監視をしてもダメ

食事作り、洗濯、掃除、入浴介助、トイレ介助

服薬介助、失禁の後始末。

どれだけやっても報われる事は一つもなかった。

それでも幼少期からの「弥生とママは2人で1つ」の言葉が私を

支配していたのだと考える。私が居なくなったら?

母はどうなるのか?でも、私も限界を超えている。

自分の事より母の事を優先して対応する事が自然と身についている。

ネットで「お酒、止める」と検索しようやく自助グループに

繋がる事ができたが、母はお酒を止める事はなかった。

最後に聞いた「ごめんね」

病室で療養する母親のそばで、19歳の山下弥生さんが最後の言葉「ごめんね」を聞く場面のイメージイラスト


19歳の私が、母から最後に聞いた「ごめんね」(イメージイラスト)

大阪の専門病院に入院させ再度「一人暮らしで頑張る」という時

また再飲酒をし救急搬送され急いで病院に駆けつける。

声にならない声で「ごめんね」この言葉だけを残し意識をなくした。

10日間ICUに入院するも肝臓の機能が出来ておらず残す治療は

「肝移植」迷わず私は自分の肝臓を提供するとDrに伝え周りの

反対もあったが、適合検査の途中に母は亡くなった。

間に合わなかった。助ける事が出来なかった。守れなかった。

「ママと弥生は2人で1つ」私は完全に1人になった。

「助けて、辛いよ」と言ってもらえる大人に

結婚し幸せな生活を送っていても、子供に恵まれ夢の

「家族」が出来ても、夢のマイホーム自分の安心して

帰る場所が出来ても、私の心の中は埋まる事はない。

「ヤングケアラー」一言でいうが周りの大人は誰一人

助けてくれなかった。見て見ぬふりをした。

子供の立場で絶対にやらなくて良い役割をずっと背負い生きてきた。

私は、今後自分が受けて辛かった想いを

子供たちにはさせたくない。

「助けて、辛いよ」と言ってもらえる大人でありたい

それが今までの自分が受けてきた辛さを救う一つなのかもしれない。

山下弥生の独り言 / 2026年10月23日

「子どもは親を選べない」——それでも、私は母を選んで生まれてきたのだろうか

「子どもは親を選べない」。よく聞く言葉です。

私もずっとそう思ってきました。アルコール依存症の母のもとに、誰が好き好んで生まれてくるのでしょうか。こんなにつらい思いをするために、わざわざ母のもとに生まれてくるはずがない。今でも、そう思っています。

2歳の長男が突然話してくれたこと

皆さんは「胎内記憶」という言葉をご存じでしょうか。子どもが母親のお腹の中にいたときや、生まれる前のことを語る現象を指します。ただし、その記憶が実際の胎児期の体験に由来するという科学的根拠は確立されていません。

今から12年前、長男が2歳だったときのことです。何も尋ねていないのに、突然こう話し始めました。

「ママ、いっちゃんはママのところにどうやって来たか教えてあげる」

「ママはいつも一人ぼっちで、かわいそうだなぁと思って、いっちゃん、お空からママをずっと見てたの!」

「それで、このママのところに行く!って言ったら、大きな白い鳥さんがママのお腹のところに連れて行ってくれたんだよ。ママが寂しくないように」

まだ2歳だった長男が、自分からすらすらと話してくれたことに、私は本当に驚きました。

母の命日と、長男の妊娠が分かった日

長男を妊娠したと分かったのは、4月10日。アルコール依存症で亡くなった母の命日でした。

私にとって4月は、今でも心が不調になりやすい月です。そのときも、月経が遅れているのは精神的につらいからだろうと思っていました。だからこそ、長男の存在を知った日が母の命日と重なったことは、今も忘れられません。

反抗期の長男と、今の私

そんな長男も、今は絶賛反抗期中。毎日、まともに会話がありません(笑)。

ところが数日前、HELKEMAのチラシを作っていたときには、代表の今野さんとは何だか普通に話していました。

朝も「だる〜」という雰囲気を全身から出しながら学校へ向かいます。でも、私が自室の窓から見守っていることを知っているので、歩きながら毎日必ず、こちらをちらっと見上げてくれます。

その瞬間、「まだまだかわいい!」と思うのです。反抗期上等! そんな気持ちで日々を過ごしています。

もし、生まれる前の自分に聞けるなら

私は今でも、アルコール依存症の母のもとに生まれたくて生まれてきたわけではないと思っています。

でも、もし長男が語ったように、子どもが自ら親を選んで生まれてくるのだとしたら。私は、アルコール依存症の母とともに生きるために、自ら母を選んだのかもしれません。

最後にあんなに苦しい思いをすることになっても、母を選んで生まれてきた理由を、私は生まれる前の自分に聞いてみたい。

その答えは、今も分かりません。

※これは山下弥生個人の体験と心の問いを綴った文章です。胎内記憶や「子どもが親を選ぶ」という考えが科学的に証明されていることを意味しません。また、子どもが親の病気や生活を背負うべきだという趣旨ではありません。

今、同じような思いを抱えるあなたへ

家族を大切に思うことと、自分の助けを求めることは、両立していい。子どもが親の命や生活のすべてを背負わなければならないわけではありません。

「助けて、辛いよ」と言える場所が、あなたにもあります。